維新の党「仮面夫婦」の破局は仕組まれていた

 

(東洋経済オンライン)829

 

野党として民主党に次ぐ国会議員数を誇る「維新の党」。同党のゴタゴタが、ついに「分裂騒動」へと発展した。

同党にもともと水と油とでもいうべき2つの相容れない勢力がある。その対立に、あることがきっかけとなりヒビが入った。そのヒビが修復されることはなく、橋下徹大阪市長と松井一郎大阪府知事が827日、正式に維新の党の離党を表明した。

後述するが、この「きっかけ」は利用されたにすぎず、離婚シナリオはあらかじめ練られていたものだろう。冷めきった仮面夫婦だったのである。

■幹事長が共産党推薦の候補を応援

あるきっかけとは、柿沢未途同党幹事長が14日、梅津庸成氏を応援するために山形市入りしたことだ。梅津氏は913日に行われる山形市長選に、民主・共産・生活・社民の野党4党の推薦候補として出馬予定。維新の党は梅津氏を推薦していない。

にもかかわらず、柿沢氏は応援に駆け付けた。梅津氏を推薦する野党から依頼があったわけではなく、梅津氏を応援する小林節慶應義塾大学名誉教授から要請されたからだという。ちなみに小林教授は、維新の党の安保関連法案に「合憲」のお墨付きを与えている。

しかし、これが党内の混乱の端緒になった。維新の党が梅津氏を推薦しなかったのは、梅津氏に共産党の支援が付いているため、「大阪系」の議員たちがこれを拒否したからだ。それを押し切るために、柿沢氏が持ちだしたのが「野党連携」だ。松野頼久代表も代表就任時から「野党の幅広い結集」を是としている。だがそもそも「大阪系」はそれに頑なに反対してきた。党内には全く相容れない路線が2つあるわけだ。

 
柿沢氏の山形市入りを知った維新の党東北ブロック代表の小熊慎司衆院議員や山形県2区支部長の川野裕章氏はなんとか押しとどめようとしたが、柿沢氏は「野党連携に繋げる必要がある」と強行。責任を感じた小熊氏が党の役職の辞表を出すまでに発展した。そればかりではない。「大阪系」を中心に、猛烈な柿沢批判が巻き起こったのだ。
たとえば浦野靖人衆院議員は、814日に「辞職(注:幹事長辞任のこと)よろしくお願いします」とツイッターに記載。足立康史衆院議員もツイッターで激しく柿沢氏への批判を展開し、18日付けのブログで「柿沢議員は初鹿(博明)議員以下、上西さゆり並み」と酷評。「初鹿議員は共産党とマイクをともにして、柿沢幹事長からすべての役職を解任された。傘下の議員には厳しい処分を下して、ご自分は謝るだけ、柿沢さんもそれでは済まない」と述べている。
そして彼らのボス的存在である松井知事も820日の会見で、「お子ちゃま、赤ちゃん」「けじめを付けない幹事長にはついていけない」と柿沢氏を厳しく批判。橋下氏も「最後は喧嘩で決着するしかない」と松野頼久代表に伝えていた。
アポなしで大阪を訪問
こうした混乱にさらに拍車をかけたのが、柿沢氏が25日に大阪府庁を訪問したことだろう。これは事前のアポイントメントをとらない“突撃訪問”だった。今井雅人政調会長もその前夜に松野氏に要請されて同行しているが、代表である松野氏も関与していながら、なぜ松井氏にアポをとらなかったのかが不思議だ。アポをとろうとすると、断られるかもしれないという判断があったのかもしれない。ならば初めから関係修復など不可能だ。わざわざ大阪まで行く必要があったのか。
案の定、柿沢氏と松井氏は短時間話をしただけで、双方は歩み寄ることはなく、決裂に終わった。松井氏はその日の夕方、「一枚岩では進んで行けない」と述べ、党の分裂を示唆している。
そして26日午後6時から急きょ、衆院第26控室で両院議員懇談会が開かれた。すっかりしおらしい様子で現れた柿沢氏がこれまでの経緯を説明。「足立さんが(経済産業省で後輩だった)佐藤候補の応援に入るというから、私も梅津候補の応援に入った」と述べると、足立氏がすぐさま「それは順序が違う。幹事長が山形に入るというから、私も入ろうとした。しかし地元の『入らないでくれ』との要請を受け入れ、中止した」と反論した。その他、さまざまな意見が相次ぎ、懇談会は2時間にも及んでいる。
2712時半から開かれた両院議員懇談会は、橋下氏からのメールが読み上げられ、5分で終了。その内容は以下の通りだ。
① 柿沢幹事長は辞任しない
②公開討論会は開催しない
③今、党が割れるようなことはしない
④僕と松井知事は、国政政党維新の党を離れて大阪、関西の地方政治に集中する
そしてこの日、橋下氏と松井氏が離党を表明。2人が“身を引く”ことで騒動はおさまったように見えたのだが……。
実際はそうではなかった。
橋下氏は早速28日夜に「大阪維新の会で国政をやりたい」と述べ、④を撤回。彼の動きに「大阪系」の多くが合流すると見られている。
そもそも橋下氏らは「維新の党」にさほど未練があるわけではない。党名は昨年8月に日本維新の会と結いの党が合併した時、妥協して名付けたものだ。地方議員のための「大阪維新の会」を残したのも、何か起こった時のリスク分散と見てよい。その例は過去にもあるからだ。
それは公明党だ。同党は199412月に新進党が結党した時、新進党への合流組と地方議員及び一部の参院議員で構成する公明の2つに分かれている。現行の小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の衆院選で同党系の議員数を減らしたものの、現在まで一定の議席数を維持できているのは、公明の存在ゆえに党としてのアイデンティティを失わなかったからと評価できる。
ちなみに公明の代表は東京都議だった藤井富雄氏が務めていた。藤井氏は創価学会の黎明期を支えた人物で、1955年から2005年まで50年にわたって練馬区議と都議を務め、「国会議員よりはるかに実力がある」と言われていた。
柿沢問題は「邪魔者」を排除する材料だった?
だが、大阪維新の会の実質上のオーナーである橋下氏の党内の影響力は、藤井氏が公明で保持していたよりもはるかに大きいものといえる。
思うに橋下氏と松井氏は、年内にこうした形になるよう、絵を描いていたのではないだろうか。819日に関西維新の会を結成し、実質的に大阪維新の会の下部組織としたのも、その準備ではなかったか。さらにいえばそのひとつの過程として、柿沢氏の問題が埋め込まれたのではないか。要するに、江田憲司氏、松野氏、柿沢氏という「邪魔者」を排除するための材料として、今回の問題は利用されたのではないだろうか。

28日夜に開かれた大阪維新の会の全体会合で、橋下氏が「党を割らないが、党を入れ替えようと思う」と述べたのも、その証左だろう。彼にとって、国会議員は誰もが「駒」なのである。