「激変する環境、思考停止する組織~郷原信郎が斬る」

この事件では、公判前整理手続の段階で最大のポイントになったのは、水谷建設から睦山会への合計1億円のヤミ献金立証のための証人尋問請求を詰めるのかどうかだった。
 
水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても(それ自体が極めて疑わしいことは、私がこれまで著書等で指摘しているところだが)、そのヤミ献金の事実と、起訴事実の陸山会の収支報告書の4億円の虚偽記人との関連性を示す証拠は全くなかった。検察官は、ヤミ献金を隠すために虚偽記人をしたとして、ヤミ献金が虚偽記入の動機・背景だという主張したが、そもそも、被告人の石川知裕氏も大久保隆規氏も、そのヤミ献金の事実を全面的に否認しており、それを隠すことが動機になって虚偽記入が行われたという証拠は全くない。

ヤミ献金と虚偽記人を結び付けるのは、憶測、推測、こじつけしかなかった。しかも、そのヤミ献金の事実は検察が捜査の対象にして、結局起訴できなかった「余罪」である。
 
このような「余罪」を立証しようとする証人尋問請求を認めることが、いかに不当なことか、次のような事例と比較してみたらわかるであろう。
 
A被告人はBを殺害した事実(〇?臓砲乃訴されたが、殺人の事実を全面的に否詰している。そのAが起訴事実より前にもBを殺害しようとして未遂に終わった容疑事実(∋?臓砲あって、その事実について徹底した捜査が行われたが、結局容疑が因まらず起訴されなかった。
 
この事例で、Aの殺人事件の公判で、〇?造瞭圧 η愀覆箸靴董↓∋?造了人未遂の事実を立証することが許されるだろうか。それは、起訴していない∋?造鬮〇?造慮?修芭証して処罰しようとしているのに等しく、刑事事件の「不告不理の原則」(検察官が起訴していない事実は審理の対象とされないとの原則)から言っても許されないことは明らかである。

不起訴に終わった余罪を公判立証することの異様さ 陸山会事件でも、もともと捜査の主題となっていたのは、この水谷建設からのヤミ献金の事件だった。マスコミでもその疑惑が大々的に報道され、検察の捜査の労力と時間の大半がこのヤミ献金の捜査のために費やされた。 しかし、結局、このヤミ献金についての政治資金規正法違反事件の証拠は因まらず、検察は立件を断念、世田谷の不動産の取得に絡む4億円の虚偽記人だけで石川氏を起訴したのである。
 
その石川氏らの公判で水谷建設からのヤミ献金の事実を、虚偽記入の動機・背景として立証しようとするのは、Aの公判で、前記の〇?造了人の背景として△了人未遂事件を立証しようとするのと同じことである。
 
本来であれば、そのような証人尋問請求は、裁判所の判断としては絶対に詰める余地はなかったはずだ。しかし、東京地裁は、検察官が強く求めたこの証人尋問請求を最終的に詰めてしまった。つまり、水谷建設のヤミ献金と4億円の虚偽記人とが関連性があるという判断を、その時点で行った。
 
そうなると、判決で、ヤミ献金と4億円の虚偽記人との関連性を否定する判断をすることは、先行して行った自ら判断を否定することになる。そのため、裁判所としては、どうしても、ヤミ献金の事実が虚偽記人の動機・背景になっているという認定をせざるを得なくなったのであろう。4億円の収支報告書虚偽記入の動機について、石川氏が、水谷建設のヤミ献金問題をマスコミから追及されるのを恐れ、世田谷の不動産の取得時期と代金の支払時期を、胆沢ダムの人・開札に近い時期ではなく、次の年にずらして記載したと認定したのである。
 
この判断がいかに常識からかけ離れたものかは、マスコミ報道の現状を少しでも認識している人間であれば、明白であろう。
 
もし、同不動産の取得と代金の支払について、実際の取得時期、支払時期のとおりに記載されていたとすれば、政治資金規正法上は全く適法である。胆沢ダムの人・開札に近い時期に4億円近くの高額の不動産の取得の事実を収支報告書で公開しても、それだけで、水谷建設からのヤミ献金疑惑の追及を受けることは考えられない。ヤミ献金というのは、その事実が表に出ないようにしてやり取りを行うからこそ「ヤミ」献金である。

ある政治家側が「目利き」をした疑惑が指摘されている大型工事の発注の時期と、その政治家の政治資金収支報告書に多額の現金の政治資金の動きが記載されている時期とが重なっていたとしても、それだけで、ヤミ献金の疑惑を報じることができるほど甘いものではない。ヤミ献金疑惑であれば、そのヤミ献金が実際に行われたことを誰が証言しない限り、それを報道しても、名誉棄損で提訴され、確実に敗訴する。そのことは、その種の調査報道を行っているマスコミ関係者であれば容易にわかるはずだ。
 
水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても、その後、同社の会長が脱税事件で逮捕・起訴されたり、仮釈放間際の受刑中にヤミ献金の事実を供述したりすることがない限り、そのような疑惑が表面化することも、マスコミ報道の対象にされることは、あり得なかったはずである。
 
このような水谷建設からのヤミ献金疑惑がマスコミに追及されることを恐れて4億円の収支報告書の記載をずらしたということは常識から判断してあり得ないことである。どうしてこのような明らかに不合理な認定が行われたのか。裁判所としては、無理やりにでも、水谷建設のヤミ献金が4億円の虚偽記入の動機・背景になったと詰めなければ、検察官の証人尋問請求を語めた自らの判断が間違っていたことを認めることになる。それが、マスコミ報道の常識から考えて明らかに不合理な事実認定を裁判所が行うことにつながったとしか考えられないのである。

特捜部の面子をかけた冒頭陳述案に「根負け」した最高検 私が、某検察幹部から聞いた話では、そもそも、水谷建設からのヤミ献金について石川氏らの公判の冒頭陳述に記載することに対しては、検察内部でも強い異論があったようだ。捜査を進めてきた特捜部は、石川氏らの公判で、水谷建設からの1億円のヤミ献金を、政治資金規正法違反事件の動機・背景として冒頭陳述に記載して立証することを強硬に主張した。小沢氏の起訴が果たせなかったが、そのかわりに、ヤミ献金の事実を石川氏らの公判で冒頭陳述書に書けば、マスコミがそのまま報道し、それによって小沢氏にダメージを与えることができるという思惑からであろう。
 
しかし、最高検側は、水谷建設のヤミ献金の問題と4億円の虚偽記人とは関連性がないとの理由で、冒頭陳述案から削除するように指示した。ところが、特捜部は諦めない。また、水谷ヤミ献金の事実を記載したままの冒頭陳述書案を最高検に上げる、最高検から削除するよう重ねて指示されても、またその事実を書いたまま案を上げる、ということを繰り返しているうちに、最高検サイドも、最後には根負けして特捜部の冒頭陳述案を丁承してしまった。

「どうせ関連性のない立証を裁判所が認めるわけがないから、書くだけ書かせ
るしかない」という判断になった。検察が立証方針を決める段階で、特捜部の面子をかけた「無理筋」が通ってしまったのである。

 
本来、そのような起訴事実と関連性のない証人尋問請求は認められるべきものではない。弁護側も強く反対した。しかし、冒頭陳述書記載の事実の立証のために必要だと検察官が強く求めてくる証人尋問請求を却下することは、いかに、その請求が起訴事実との関連性についての判断として、常識を逸脱するものであっても、どうしても裁判所にはできなかったのであろう。いかに刑事司法の常識からはかけ離れたものあっても、検察司法の中核機関である検察が組織として決定し、当然行うべきと主張している証人尋問請求を却下することに、裁判所としては相当な抵抗があったのであろう。
 
結局、裁判所は、検察の「無理筋」の立証を詰め、水谷建設関係の証人尋問請求を容認してしまった。そうなると、判決でも、その判断を前提とする詰定を行わざるを得ない。

それが、水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記入の動機だったという、凡そ理解しがたい判決の事実語定につながったものと思われる。そして、虚偽記人の動機をそのように詰定しようとすると、判決の事実詰定は、全体的
に大きく影響を受けることになる。

石川氏については、捜査段階の供述調書の多くが証拠請求を却下されても、政治資金収支報告書に、不動産代金の支払時期について客観的事実とは異なった記載をしている以上。「無罪」にはならないであろうと私も予測していた。ただ、それは、陸山会の事務手続き上のミスか、小沢氏に、不動産取引に関する事情をよく知らされていなかったために、よくわからないまま記載した理解不足によるもので、政治資金規正法違反の動機として悪質なものとは言い難かった。
 
ところが、「水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記人の動機」ということを前提に事実認定をしようとすると、全く別の判断になる。まず、石川氏については、4億円の虚偽記人やミスとか理解不足などというものであってはなく、公共工事の目利きの対価であるヤミ献金を隠す意図から行った、まさに法の趣旨に著しく反する、悪質極まりない動機ということにせざるを得ない。
 
それは、前記のAの殺人の例で言えば、起訴事実の,了人についての証拠関係では、Aの行為とBの死亡との因果関係も殺意も立証できず「傷害」の認定にとどまったが、起訴されていない△了人未遂の事実について証人尋問まで行って殺意を認定し、それを考慮して、,了人の事実についても悪質な動機による犯罪と詰定して重く処罰するのに等しい。

 
そのような「水谷ヤミ献金動機・背景認定」による汚染は、それだけにとどまらない。私は、前田元検事がとった大久保氏の調書の任意性が否定され証拠請求が却下された以上、同氏の無罪はほぼ確定的だと見ていたが、判決の判断は全く異なる。ヤミ献金が胆沢ダムの工事受注の対価だとすると、その「目利き」を行った大久保氏こそが悪事の張本人ということになる。何とかして有罪の認定をしないと収まりがつかない。

そこで、石川、大久保、池田の3氏の間の共謀や犯意を「推認」に次ぐ「推語」で認定する。結局、判決全体が、「推認」、「推測」で埋め尽くされているが、その背景にあるのは、「水谷ヤミ献金動機・背景認定」であり、それは、「小沢事務所は、公共工事で『天の声』を出して『目利き』をして対価を受け取る、まさに公共工事の利権を食い物にしている違法集団」という認識を背景にしている。 
今回の陸山会事件判決の要旨を、刑事の実務の経験があるものが読めば、誰しも、その民事判決並みの推詰だらけの認定が、刑事事件判決として行われていることの異様さに驚くであろう。
 
しかし、その判決を出した裁判官3人が、特に異常な考え方とか性格の持ち主だとは思えない。普通の裁判官であっても、今回のような異様な判決を行ってしまったそもそもの原因は、起訴事実との関連性がない証人尋問請求を認めてしまったところにあると考えらえる。
 
それは、刑事司法の中核たる機関として良識を持って判断すべき検察が、そのような関連性のない立証を行う方針を組織として容認してしまったことに根本的な原因がある。そこには、証拠不十分のため、捜査で目的を果たせなかった特捜部の現場が、面子にかけて水谷ヤミ献金立証にこだわり続け、最後には最高検が「根負け」する形で、詰めてしまった刑事司法の常識に反する立証が招いた結果なのである。

陸山会事件判決は、刑事事件の常識に反する立証を詰めたことが、最終的に「『推詰』に埋め尽くされた異様な判決」につながり、政治的に重大な影響を与えた例として、これもまた、目本の司法の重犬な汚点になる可能性がある。